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わくわくタスマニア代表・ムラタアキラの略歴

只今絶賛執筆中です

私の人生の略歴です。

すごく暇でどうしようもない時でも読みたくないかもしれませんが、サイト運営のお約束事的なところがあるので、一応公開しておきます。

不平・不満・苦情などは一切受け付けておりませので、あしからず。

決して怪しいものではありません。ただの犬好きおじさんです。

生後から小・中学校時代

東京都杉並区生まれの千葉県柏市育ち。

東京生まれっていうのは本当ですけど、生後すぐに千葉県柏市の奥深くに引っ越したので私は柏っ子です。

小・中学校は柏の秘境田中地区で過ごしました。
千葉県をよく知る友人は”田中”って聞くといまだに爆笑してくれます。
最近は”つくはエクスプレス”ができたおかげで、イメージがよくなっているのかな?

高校・大学時代

高校は東京の杉並にある井の頭線沿線の私立高校へ通わせていただきました。
私も今や二人の子の親ですが、教育費ってホントに高いですね。
高校から私立へ行かせてもらえて大感謝です。

大学は渋谷の丘の上にある学校でした。
高校が付属だったので、一般入試ではなく付属高校生が集まって試験を受ける推薦入試でした。得意科目が”世界史”だったので”世界史”一本に受験勉強のターゲットを絞ったのが良かったんでしょう、無事に合格できました。

もちろん大学も私立なので、学費を払ってくれてありがとうございます、の感謝の念が堪えません。

でも体連のラグビー部に入っちゃったんですよね。うちの大学の場合、体育会とは呼ばず、体育連合会、略して体連と呼ばれているんです。

お父さん、お母さん、ごめんなさい。
勉強はほとんどやりませんでした……
💧

そんな私でもなんとか4年で無事に卒業できました。

会社員からプーさん、そしてワーホリくんへ

卒業後はちゃんと就職をしました。
毎日出社して会社員として日夜奮闘していたつもりです。

でもふと魔が差したんでしょうね。
気が付いたら会社へ辞表を提出していました。
当時はフリーターなんてかっこいい名前なんてありませんし、ましてやプー太郎って言葉でさえまだなかったんじゃないでしょうか。
しいていえば、レールから外れた人とか社会からドロップアウトした人、みたいな。

しばらくはアルバイトに勤しんでお金を貯めて、そのお金でオーストラリアへワーキングホリデー制度を利用して初渡豪しました。

この時は海外へ行くのは初めてだったし、飛行機にさえ乗ったことがなかったので私にとっては大冒険でした。

当然英語なんてわかりませんでした。まあ、英語に関しては今でも良くわかりませんが。

オーストラリアではまさにあっちへフラ~リ、こっちへフラ~リ。

当時は日本人がオーストラリア観光に大挙して押し寄せていました。シドニーには数多くの日本人向けお土産物屋さんが建ち並び、ホテルでは塩鮭や納豆の和定食が出てくるような時代です。

仕事をさがすのにはそんなに苦労がいりませんでした。

シドニーでお土産物屋さんの店員から始まって、ピーマンの収穫トマトの収穫ジャパレス(ジャパニーズレストラン)での皿洗い等々をやりながら、オーストラリア大陸を東奔西走、南船北馬。

当時は最初に半年のビザを貰って、入国後半年したら移民局へ行って手続きをすれば残り半年のビザが貰えるっていうシステムでした。手続きの際には仕事ばっかりやっていたんじゃなくて、いろいろと旅行したりした証拠として写真などを持参していかなといけなかったと記憶しています。

私の場合は上述のようにウロウロしていたので難なくクリア。トータル一年のワーキングホリデーを満喫させていただきました。

ワーキングホリデーの最後の方はお金が無くなって帰りのチケットが買えそうもなかったので、またシドニーへ戻って、お土産物屋さんで働いて帰りのチケット代を稼ぐ綱渡りでした。

チケットが買えなくて帰国できなかったら、不法滞在になるところでしたね。

最愛の妻!との出会い

そこのお土産物屋さんで奥さんと出会いました。

人の縁って不思議ですね。
もう少しお金があって働く必要がなかったら出会わなかったわけですから

うちの奥様について

うちの奥様は生まれも育ちもローンセストンで生粋のタスマニアっ子です。

彼女が高校生の時にロータリークラブの交換留学生として一年間岐阜県関市へ派遣されました。

本当はU.S.Aとかヨーロッパのどこかの国へ行きたかったみたいですけど。

だけど一年間の留学生活で日本がとっても気に入ってくれたようです。

日本へ来る前はまったく日本語なんて喋れなかったのが、一年後にオーストラリアへ帰国するときにはかなり流暢な日本語が喋れるようになっていたそうです。

彼女曰く、

日本語は喋るだけなら結構簡単

だそうです。

で、オーストラリア帰国後にしばらくアルバイトみたいなことをやってお金を貯めて、すぐにまた関市のほうへ戻っていきました。よっぽど関市での生活が楽しかったんでしょうね。

私も彼女と結婚後、何度も関市の方へはお伺いしていますが、あの辺りっていいところですね。日本の原風景っていうのか何のか。彼女と結婚していなかったら、一生縁のない土地だったかもしれません。

彼女が私と出会った時っていうのは、その2回目の関市での生活が終わってオーストラリアへ帰ってきてしばらくの頃でした。覚えた日本語を使える仕事ってことで、シドニーの日本人向けのお土産屋さんで、日本人店員にあれやこれやと指示を出す係ですね。

志村坂上

私はワーホリから日本へ帰国してからまた会社員生活へ戻りました。

数か月後に彼女も日本へやってきて、二人で東京都板橋区志村坂上のアパートで同棲生活をスタート。

彼女は米国の証券会社への入社を決めて、毎日二人して社畜会社員として都営三田線に乗って頑張って働いていました。

英国ロンドンへ

その後なんだかんだで、彼女がロンドンへの転勤が決まってしまいました。

志村坂上での生活が結構楽しくて気に入っていたのでちょっとショックでした。

私の英国ビザを申請する都合上入籍が必要となり8月下旬の暑い昼下がり、ホンダ・スペイシー 250 ccに二人乗りをして板橋区役所へ婚姻届けを提出しにいったのはいい思い出です。

まあこれで晴れて夫婦となったんですが、うちは結婚式はモチロン、友人知人親兄弟を集めてのお祝いの食事会みたいなことも一切やりませんでした。急にいろいろと決まったというのはあるんですが、今考えるとなんかやっといても良かったかもしれないですね。

ロンドン到着

わたしのロンドンの第一印象は最悪でした。

わたしのは配偶者ビザだったんですけど入国審査で引っかかってしまい、怪しそうな密入国者風の方々が集うナイスな部屋へ連れていかれてしまいました。わたしの奥さんが先に英国入りしていてロビーでわたしが出てくるのほ待っているはずだから呼び出してくれ、と拙い英語で懇願して、なんとか通じたようで、しばらくするとわたしの奥さんがわたしを引き取りに現れてくれました。女神降臨!

ようやくヒースロー空港の外に出られたんですけど、その時は丁度ヨーロッパに寒波が来ていたそうです。マジで滅茶苦茶寒い

そんなこんなで、しばらくは寒いしすぐ暗くなるし陰鬱な天気だしで毎夜枕を涙で濡らしていました。

ロンドンでの生活

奥さんは毎日仕事で朝から夜遅くまで働いていて、わたしもなんか仕事をさがさなければと仕事さがしを始めました。英国には日本人向けのフリーペーパー「英国ニュースダイジェスト」っていうのがあって、そこに載っていた日系物流関係の求人に応募したら合格させていただきました。

スマホどころかインターネットさえない時代、日本語の情報っていったらこのフリーペーパーか「朝日新聞衛星版」でした。朝日新聞はどこでも売っているってわけじゃなかったんですけど、たまたま近所のニュースエージェントが取り扱っていたんですよね。ある朝の記事で西武が秋山を電撃放出”なんていう記事にショックを受けたことが昨日のことのようです。

ロンドンでの愛車シトロエン2CV

citroen 2CV
ロンドンでのフラットと愛車シトロエン 2CV

ロンドンでは働いていた場所が結構遠くてヒースロー空港方面でした。

わたしたちが住んでいいたのがハムステッドという地域で、公共交通機関で通勤すると時間がかかりすぎてしまいます。時間通り来ないし、本数も少ないし。

それで車通勤をすることになって何を買おうかと物色していると、シトロエン2CVという車が可愛くてしかも激安でした。

今ではクラシックカー的なところもあって値段が高いようですが、わたしが買った当時は滅茶苦茶安かったです。

シフトレバーがかなり独特だし、エアコンもないし、だから雨が降ると窓が盛大に曇るし、エンジンはすぐオーバーヒートするし、朝一番にエンジンがかかるか毎日が勝負だし、ちょっと遠出をするとエンジンルームから煙が上がってくるし、などなど普段使いにはとーってもおすすめできない車でしたけど、まだ若かった二人、いろいろと楽しい思い出をこの車と作らせてもらいました。

IRAの爆破テロ

私たちは4年間ほどロンドン生活を楽しませてもらいましたが、その中で自分にとっては忘れられないってほどでもないんですが、結構大変な事件に巻き込まれてしまいました。

当時っていうか今もこの問題は燻っているとは思うんですが、北アイルランドを英国から分離してアイルランド共和国に組み入れてアイルランド統一したい、と願う人たちがいるんです。

統一を目指す武装組織がIRA(Irish Republican Army/アイルランド共和国軍)といって、イギリス各地でテロ活動を行っていました。

あれは寒い冬の夜でした。

その日はわが愛車2CVくんのご機嫌が悪くてバスと電車で通勤していたんですげど、仕事が終わって夜の10時頃に最寄り駅のフィンチェリー・ロード駅(Finchley Road Station)からバスを待っていたんですよ。歩いて帰っても良かったんですけど、きっとバスがすぐ来る時間だったんでしょうね。

バスを待っているところから200メートルほど先で閃光と「ドン!」という爆発音が聞こえました。あとで知ったのですが、ピザ屋さんが爆破されたそうです。

その時は「もしかしたら爆弾だったのかな?」と思って、家に帰ったら奥さんに報告しようと考えていました。

そんなことを考えながらバスが来たのでバスに乗り込みました。

その瞬間、「ドン!」と先ほどよりは何倍も大きい音が響き、バスが大きく揺れました。

正直に言います。すげービビりました。

その時は一瞬頭の中がパニックになり、「新宿西口バス放火事件」のことを連想してしまって、「まずい、バスの中から逃げないと!」と思ってしまって一目散にバスから降りてしまいました。

どんな時でも冷静になんないとダメですね。結果的に外に出たのは大間違いでした。

爆弾は道路の向かい側のビルで爆発したようなんですが、爆風でこちらのビルの窓ガラスも割れて上から落ちてきていたんです。

その落ちてくるガラスが頭に当たってしまいました。

頭を切ったことがある人ならわかると思うんですけど、頭ってちょっと切れただけで結構血が流れちゃうんですよね。

周りの人に介抱されて救急車に乗せられて病院行きです。

傷自体はまったくのかすり傷で、せっかく病院へ連れて行かれたんならもうちょっとケガしていた方が良かったかな、なんて考えたりするほどでした。

公衆電話から家へ電話したんですけど、爆破テロに巻き込まれた、なんて電話口で聞くとビックリしますよね。家を飛び出した奥さんは半べそをかきながらタクシーをつかまえて、ちょうどその時は持ち合わせがなかったのか、財布を忘れてきたのか、定かではありませんが、タクシーの運転手さんに「旦那が爆破テロに巻き込まれて病院にいる。だけどお金がない。」というとタクシーの運転手は「お金はいらないからすぐに乗れ、病院へ連れて行ってやる!」と男気を出して乗せてくれたそうです。

夜中、ようやく家に帰ると今度は日本大使館のほうから電話がありました。病院で氏名と勤務先などを書いたのですが、それで日本人がいたことがすぐにわかったようです。すごいですね。

大使館から日本の実家の方へも連絡してくれたようで、実家の両親はさぞ心配したことでしょう。

この事件があってしばらくは街中を歩くのがちょっと怖くなっていました。PTSDっていうんでしょうか、街を歩いているとふと爆弾が爆発するんじゃないかっていう恐怖心が出てきて冷や汗をかくようになってしまいました。

今ではすっかりとそんな症状はなくなっていますが、PTSDって傍目にはまったくわからないので、もしPTSDに苦しんでいる人がいたら、優しくしてあげてください。

グッドバイロンドン、ニイハオ香港

なんだかんだとロンドンには4年間ぐらい滞在させていただきました。

奥さんが香港への転勤を打診されて受けたのと、長男の妊娠がわかったのがほぼ同時期でした。

一応奥さんは彼女のボスに「妊娠したっちゃから、香港へ転勤できないんじゃない?」とお伺いを立てたそうなんですけど、ボスは「別にいいんじゃない。」という軽めのノリで香港への引っ越しが決定しました。

まあ転勤が決まってもそうすぐには引っ越しは出来ず、妊娠5か月ぐらいでのロンドン転出となりました。

妊娠がわかる前は、ヨーロッパ中を旅行しながら香港へむかいたいね、なんて話し合っていたんですけど、身重となった奥さんはウロウロと旅行なんてする気分からは程遠くなっていました。

そんなこんなで実際に香港へ到着したのは秋の始まりの頃でした。

香港での生活

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