ホバート中心から車で約10分、ダーウェント川の畔に立つ円柱の建物が象徴的なレストポイントホテル(Wrest Point Hotel)。
今回はレストポイントホテルの歴史について調べてみました。
いろいろと調べてみてビックリ。単なるいちホテルの歴史にとどまらず、オーストラリアの歴史と深く関わっていて非常に興味深い話になっていました。
そんなレストポイントホテルの歴史を是非ご一読ください。
元囚人の家!?
死刑判決の囚人
今ホテルが建っている地に最初に家が建てられたのがホバートが開かれて間もない頃の1808年のこと。
家を建てたのがトーマス・チャフィー(Thomas Chaffey/1768?-1849)という人でした。
この人はなんと元囚人。
彼は1788年東ロンドンで4ギニーを奪った8人の強盗団の一人として逮捕され、その後裁判で死刑判決を受けました。
死刑の代わりに豪州への移送を申し出られる
翌年の1789年9月、彼は死刑判決のかわりにオーストラリアのニューサウスウェールズへの移送を申し出られたのですが、オーストラリアへ送られるぐらいなら死刑のほうがましだ、と当初移送を拒否していました。
豪州への移送を承諾・航海へ
彼は最終的に移送を受け入れました。
1789年11月19日にノースヨークシャー州スカボロー(スカ―ブラ/Scarborough)に移され、1790年1月19日にオーストラリアへ向けて出港しました。
悪夢のセカンドフリート(第2船団)
トーマスが乗船した船団はオーストラリアへ囚人や物資を運ぶためのの2回目の船団でした。総数6隻からなる第2船団(Second Fleet)と呼ばれています。
この船団は船内の劣悪な環境と囚人への残酷な虐待などにより、歴史的悪名を轟かせました。
船団に乗せられた1006人の囚人のうち4分の1が航海中に死亡、オーストラリアに到着してからも6か月以内に約40%が死亡しました。
航海後、船団の中の1隻の船長と乗組員は囚人に対する罪で起訴されましたが短い裁判の後に無罪となっています。
この船団は6隻が揃ってオーストラリアまで航海して1789年にシドニー湾(Sydney Cove)に到着予定でした。しかし6隻のうち1隻はシドニー湾へ到着できず、1隻は1790年4月到着、残り4隻は最初の船が到着してから2か月後の到着でした。
シドニーで船団を待っていた入植者たちは数名の囚人たちと多くの物資の到着を期待していました。しかしながら到着した船団には多くの病人と死体、期待した量からは程遠い少量の補給物資しかなく入植者たちは第3船団の到着(1791年)まで飢えと戦わなければなりませんでした。
死の航海を乗り越えて
トーマスはこの劣悪な死の航海を乗り切り1790年6月28日にシドニー湾へ到着しました。
彼の将来の妻になるマリア・イスラエル(Maria Israel/1771-1849)もこの船団に乗せられていた囚人の一人で彼とは別の船で無事にシドニー湾へ到着しています。
シドニー到着後しばらくしてからの1790年8月、彼らは今度はオーストラリア大陸の東にあるノーフォーク島(Norfolk Island)へ送られています。このノーフォーク島も当時は英国の流刑植民地でした。
彼は1796年3月23日に2代目ニューサウスウェールズ総督のジョン・ハンター(John Hunter)により恩赦を受け、妻のマリアも同年刑期が終了しています。
1802年、トーマスはノーフォーク島の土地を購入し、家を建て、農場を設立しました。この時点で彼は囚人たちの監督者となり、1805年に巡査となりました。この島でトーマスとマリアの間には8人の子供が生まれました。
1807年、彼ら家族は再び船上の人となり一家はヴァン・ディーメンズ・ランド(Van Diemen’s Land/タスマニアへ改名前の名称)のホバートタウン(Hobart Town)へと移りました。
彼ら一家は現在のサンディーベイ(Sandy Bay)エリアに260エーカーの土地を付与されました。現在レストポイントカジノホテルがある場所に彼は家を建て、このポイントはチャフィーズポイント(Chaffeys Point)として40年以上にわたってその名を知られていました。
チャフィーズポイントの売却
トーマスの息子ウィリアム・チャフィー(William Chaffey)は1839年にここに宿泊施設トラベラース・レスト・イン(The Travellers Rest Inn )を建てます。
1842年になるとこの場所はホバートレガッタ(Hobart Regatta/ヨットレース)の会場となり、1845年にウィリアムは現在レストポイントカジノホテルが建つ場所を含む5エーカーの土地をデイビッド・ダンクレー(David Dunkley)という商人に売りました。
彼はここに実用的な家を建て、以来この場所は何度か所有者がかわり建物も建て直されたりしていきました。
レストポイントへの名称変更
1928年、クレッシー(Cressy)に住むタスマニアの富豪ルーカス夫人(Mrs G. Menette Lucas)がこの土地を購入して大邸宅を建てる計画をたてます。
大邸宅の工事は1930年に始まり、当時入手可能な最高級な素材を使って建築を進めていきました。しかし大邸宅完成目前にルーカス夫人の夫が亡くなってしまいます。
悲しみに暮れたルーカス夫人はその大邸宅の名前を、亡くなった夫の家族がイングランドで所有していた建物の名前をとってレストポイント(Wrest Point)と名付けました。
この大邸宅は1936年にアーサー・ドライズデール氏(Arthur Drysdale)により購入されています。彼はルーカス夫人が建てた大邸宅を改装してレストポイントリビエラホテル(Wrest Point Riviera)として1939年にホテルをオープンします。
彼が目指したホテルのコンセプトはダーウェント川に停泊する外洋客船、でした。
レストポイントカジノホテルへ
1956年にドライズデール氏はオーストラリアの老舗ホテルグループのフェデラルホテルグループ(Federal Hotels)へレストポイントリビエラを売却します。
フェデラルグループはこのホテルを増改築していきます。
1960年代に入るとオーストラリアで最初のカジノホテルのライセンスの取得に成功しました。
1973年2月10日オーストラリアで最初のカジノホテルとしてレストポイントホテルカジノ(Wrest Point Hotel Casino)が正式にオープンしました。
その後も改装や増築、2018年の洪水での破壊的ダメージからの回復など、今現在もレストポイントカジノホテルは進化し続けるホテルとしてホバート市民や旅行者たちから絶大な人気を集めています。